お花見で子どもがすぐ飽きる理由|無理に楽しませなくていいと気づいた日、親としての向き合い方まで

お花見と聞くと、春らしくて、家族でのんびり過ごす穏やかな時間を思い浮かべますよね。私もそうでした。でも実際に行ってみると、子どもは桜を見ている時間より、地面の石を拾っている時間のほうが長くて、「もう帰りたい」と言われてしまったことがあります
せっかく準備してきたのに、と少しがっかりした気持ちと、「うちの子、全然楽しめていないのかな」という不安が混ざりました。この記事では、そんな経験を通して気づいたことや、子どもがお花見で飽きる理由と、その受け止め方について、同じ立場の親としてお話しします。
子どもがお花見ですぐ飽きるのは、よくあること
桜は大人の「見るイベント」
お花見は、大人にとっては「季節を味わう時間」です。
満開の桜を見て、春が来たことを実感したり、去年のことを思い出したり。静かに眺めること自体が、ひとつの楽しみになっています。
でも、子どもにとっての世界は少し違います。
桜はたしかにきれいですが、触れられないし、動かないし、遊び方が分かりにくい存在です。目で見るだけの時間が続くと、どうしても集中が切れてしまいます。
私の子どもも、最初は「ピンクだね」「きれいだね」と言っていましたが、それはほんの一瞬でした。そのあとは、地面に落ちている花びらを集めたり、遠くの遊具に向かって走っていったり。
それを見たときに感じたのは、「興味がない」のではなく、「感じ方が違うだけなんだ」ということでした。
子どもは今その瞬間に楽しいもの、体を動かせるもの、反応が返ってくるものに自然と惹かれます。
だから、お花見でじっとしていられないのは、決して落ち着きがないからでも、親の関わり方が悪いからでもありません。子どもの感覚からすると、とても自然な反応なのだと思います。
年齢によって楽しみ方が全然違う
子どもと一口に言っても、年齢によってお花見の受け止め方は大きく変わります。
同じ場所にいても、見えているもの、感じていることはまったく違います。
未就学児にとってのお花見
未就学児にとって、公園や河原は「お花見会場」ではなく、「広い遊び場」です。
桜よりも、走れる場所があるか、石や枝が落ちているか、登れそうな段差があるか。そういったことのほうが気になります。
この時期の子どもは、桜を鑑賞するよりも、体を動かしながら春を感じています。
桜の下で遊んでいるだけでも、その子なりに季節をちゃんと味わっているのだと、あとから思えるようになりました。
小学生になると変わってくる視点
少し大きくなると、お花見の楽しみ方も変わってきます。
桜そのものよりも、
・みんなで食べるお弁当
・友達と一緒に過ごす時間
・屋台や特別感のある雰囲気
こうした要素が、お花見の中心になります。
それでも、「桜を静かに眺める」ことが一番の楽しみになるのは、まだ先のことも多いです。
大人が思うお花見と、子どもが感じているお花見には、どうしてもズレがあります。
「まだその時期じゃない」だけかもしれない
桜そのものを楽しめるようになるかどうかは、性格や経験にもよりますが、年齢の影響も大きいと感じます。
今は興味がなくても、数年後に同じ場所で立ち止まって桜を見上げる日が来るかもしれません。
今のお花見で大切なのは、「桜を楽しませること」よりも、その子の今の感じ方を否定しないこと。
そう思えるようになってから、親としての気持ちもずいぶん楽になりました。
「せっかく来たのに」と思ってしまった自分の気持ち
親の期待が、少し先走っていた
正直に言うと、あの日の私は「家族で春を感じたい」「きれいな桜の下で、穏やかな時間を過ごしたい」と思っていました。
レジャーシートを広げて、お弁当を食べて、子どもが楽しそうに笑っている。そんな光景を、どこかで思い描いていたのだと思います。
だからこそ、子どもがすぐに飽きてしまったとき、胸の奥で小さながっかりが生まれました。
「せっかく来たのに」「もう少し楽しめると思ってたのに」と、言葉には出さなくても、気持ちは確かに揺れていました。
でも、あとから落ち着いて振り返ってみると、そのがっかりは子どもに向いたものではありませんでした。
自分の中にあった理想の「お花見の形」と、現実とのズレに戸惑っていただけだったのだと思います。
子どもはその場で、自分なりに動き、感じ、楽しんでいました。
「思い描いていた通りじゃなかった」だけで、「失敗した一日」ではなかった。そのことに気づけたのは、少し時間が経ってからでした。
比べなくていいと分かっていても
家に帰って、何気なくSNSを開いたときのことです。
画面には、満開の桜の下で、家族みんなが笑顔で写っている写真が並んでいました。レジャーシートの上にはお弁当がきれいに並び、子どもも落ち着いて座っています。
それを見た瞬間、頭では分かっているはずなのに、心が少しザワッとしました。
「うちは落ち着きがないな」「ちゃんと楽しませてあげられていないのかな」と、つい自分たちと比べてしまったんです。
でも、しばらくしてから思いました。
その写真は、ほんの一瞬を切り取ったものかもしれない。写っていないところでは、子どもが走り回っていたり、ぐずっていたり、親が慌てていた時間もあったかもしれません。
そう考えたとき、「見えているものだけで比べなくていいんだ」と、少し肩の力が抜けました。
他の家庭と同じ形じゃなくても、うちにはうちの過ごし方がある。その日その時間をどう感じたかは、外からは分からないものです。
比べてしまう自分を責める必要もありません。
それだけ、「ちゃんとしたい」「いい時間にしたい」と思っている証だからです。
そうやって気持ちを整理できたとき、あのお花見の日も、悪くない一日だったと思えるようになりました。
子どもが飽きたときに、無理に引き止めなかった理由
「まだ見るよ」は言わなかった
子どもが「もう帰りたい」と言ったとき、私は正直、少し迷いました。
せっかく来たのだから、もう少し桜を見てほしい。親としては、そう思ってしまいます。
でも、その言葉を口にする前に、一度立ち止まりました。
今この時間は、子どもにとって楽しいだろうか。そう自分に問いかけてみたんです。
そこで思ったのは、楽しくない時間を無理に延ばしても、いい思い出にはならないということでした。
「まだ見るよ」と引き止めることはできても、そのあとの時間が、我慢や不機嫌で埋まってしまったら、親にとっても子どもにとっても苦しい時間になってしまいます。
子どもが「帰りたい」と言葉にできたのは、それだけ自分の気持ちをちゃんと伝えられたということ。
その声を無視しないでいたい、そう思って、引き止めるのをやめました。
滞在時間が短くてもいい
結果的に、その日の滞在時間は30分ほどでした。
お花見としては短いかもしれません。でも、帰り道を振り返ると、決して何も残らなかったわけではありませんでした。
帰り道でアイスを食べたり、落ちている桜の花びらを集めたり。
「これもさくら?」と聞きながら、子どもなりに春を感じている様子がありました。
その姿を見て、「長くいること=成功」ではないのだと、あらためて感じました。
短くても、その時間が穏やかで、親子の気持ちがすれ違っていなければ、それで十分だったのだと思います。
もし無理に引き止めていたら、帰り道はきっと不機嫌な空気になっていたでしょう。
そう考えると、「帰る」という選択は、逃げでも妥協でもなく、その日の状況に合った判断だったのだと思えました。
お花見は、滞在時間を競うものではありません。
その日、その瞬間に、家族が少しでも気持ちよく過ごせたかどうか。それだけを大切にしてもいいのだと、あの日の経験から学びました。
「お花見=座って見る」を手放してみた
遊びとセットで考える
次の年から、私はお花見の考え方を少し変えました。
「お花見をしに行く」のではなく、「いつもの遊びの中に桜がある」くらいの感覚です。
たとえば、公園で思いきり遊んだあとに桜を見上げたり、自転車で通りながら並木道を眺めたり。
お弁当も無理に外で広げず、家に帰ってからゆっくり食べるようにしました。
そうすると、子どもの様子がはっきり変わりました。
「お花見だよ」と言わなくても、花びらを拾ったり、「ここピンクだね」と話したり、自然と春を感じている様子があったんです。
子どもにとって大事なのは「お花見をすること」ではなく、「今楽しいかどうか」なのだと気づきました。
座って静かに見ることにこだわらなくても、体を動かしながらでも、ちゃんと季節は伝わる。そう思えるようになりました。
予定を詰め込みすぎない
以前の私は、「せっかくだから」と予定を詰め込みがちでした。
場所も決めて、時間も考えて、お弁当も用意して。気づけば、親のほうが段取りに追われていたと思います。
でも、あれもこれもやろうとすると、子どもが疲れる前に、親の余裕がなくなってしまいます。
思い通りにいかないとイライラしてしまったり、「ちゃんと楽しませなきゃ」と自分を追い込んだりしていました。
予定を一つ減らしてみる。
「今日は桜を見るだけ」「遊べたらそれでいい」と決めてみる。
それだけで、気持ちがずいぶん楽になりました。
余白を残すほうが、結果的に家族みんなが穏やかに過ごせる。
そう実感してから、お花見だけでなく、ほかの行事に対しても、力の抜き方が少し分かってきた気がします。
完璧なお花見じゃなくていい。
その日その時間を、無理なく過ごせたなら、それがわが家にとっての「ちょうどいいお花見」なのだと思います。
子どもが飽きた経験が、次につながったこと
子どもの「今」が分かった
あのお花見を振り返ってみると、いちばんの収穫は「桜を楽しめなかったこと」ではありませんでした。
「うちの子は、こういう時間の使い方が合うんだな」と、はっきり分かったことです。
長く座って過ごすより、短い時間でも動きながら感じるほうが心地いい。
目的がはっきり決まっているより、自由に動けるほうが楽しめる。
その特徴が、あの日のお花見でよく見えました。
それは失敗ではなく、子どもを知るための大切な情報が増えたという感覚でした。
一度うまくいかなかったからこそ、「じゃあ次はどうしようか」と考える材料が増えたように思います。
子どもは日々成長していて、その「今」は少しずつ変わっていきます。
だからこそ、そのときどきの反応をちゃんと見ておくことが、次の行動につながっていくのだと感じました。
行事への向き合い方が変わった
その経験をきっかけに、行事に対する私の気持ちも変わりました。
以前は、「ちゃんとやらなきゃ」「せっかくの機会だから」と、どこか力が入っていたように思います。
でも、お花見での出来事を通して、行事は評価されるものでも、比べるものでもないと感じるようになりました。
大切なのは、形式を整えることより、子どもがどう感じるか。その視点に立つと、準備も気持ちもずっと楽になります。
完璧を目指さなくなったことで、行事そのものへのハードルも下がりました。
できる範囲でやる。無理ならやらない。途中でやめてもいい。
そうやって選べるようになったことが、親としての大きな変化だったと思います。
行事は、家族を縛るものではなく、暮らしの中にそっとある節目です。
子どもの「今」に合わせて形を変えていく。その柔らかさを持てるようになったのは、あの日のお花見があったからこそだと感じています。
まとめ|お花見で子どもがすぐ飽きた日のこと
お花見で子どもがすぐ飽きてしまうのは、決して珍しいことではありません。
それは失敗でも、準備不足でもなく、その年齢、その子なりの自然な反応です。桜を静かに眺めることが楽しいと感じるタイミングは、子どもによって本当にさまざまです。
あの日の経験を通して私が感じたのは、「楽しませきれなかった」と自分を責める必要はまったくないということでした。
大切なのは、思い描いていた理想通りにいったかどうかではなく、その日の子どもの様子から、わが家に合った関わり方を少しずつ見つけていくことだと思います。
もし次のお花見で、また同じように「もう帰りたい」と言われたら、無理に引き止めなくて大丈夫です。
滞在時間が短くても、座って見なくても、帰り道で花びらを拾ったり、空を見上げたりしていれば、それも立派な春の記憶です。
行事は、完璧にこなすためのものではありません。
家族がその時間をどう感じたか、どんな空気で過ごせたか。それだけを大切にしていいのだと思います。
あなたの家庭なりの春の過ごし方は、きっと一つではありません。
焦らず、比べず、その時々の「ちょうどいい」を探しながら、少しずつ見つけていけますように。













