こどもの日になると、「せっかくだから」「一生に一度かもしれないから」と、つい張り切りすぎてしまった経験はありませんか。私もその一人です。料理をたくさん用意して、飾り付けもして、写真も完璧に残そうとして……終わったあとに残ったのは、どっと疲れた体と「やりすぎたかも」という反省でした。

この記事では、こどもの日で張り切りすぎた年を振り返りながら、なぜそうなったのか、何がしんどさにつながったのか、そして次のこどもの日を少し楽に迎えるための考え方を、私自身の体験を交えてお話しします。こどもの日は、親が頑張り切る日ではなく、家族が安心して過ごす日。その答えを一緒に探していきましょう。

こどもの日に張り切りすぎた年のこと

あの年のこどもの日、私は朝から本当にフル稼働でした。
柏餅と手作りケーキを用意して、子ども用のごはんも「特別感」を出したくて少し凝ってみて、兜の飾り付けもきちんと出す。前日には足りないものがないか何度もメモを見返し、買い出しも済ませて、「これで大丈夫」と自分に言い聞かせていました。

当日の私は、ずっと頭の中で段取りを考えていた気がします。
「次はこれを出して」「写真も撮らなきゃ」「機嫌がいい今のうちに」
子どもを楽しませたい一心だったはずなのに、気づけば自分自身がずっと追われているような感覚でした。

夕方になるころ、疲れが一気に出ました。
子どもが少しぐずっただけで、「せっかく頑張ってるのに」という気持ちが湧いてきて、思わずイライラしてしまう。そんな自分にも自己嫌悪して、さらに余裕がなくなる。その悪循環の中で、ふと心に浮かんだのが「私は何のために、こんなに張り切ってたんだろう」という言葉でした。

行事を大切にしたかったはずなのに、その一日をちゃんと味わえていなかった。
終わったあと、片付けをしながら、どっと疲れが押し寄せてきて、「楽しかった」という感情よりも「やり切った」「終わった」という感覚のほうが強く残っていたのを覚えています。

今振り返ると、張り切った分だけ、心に余白がなくなっていたのだと思います。
子どもを見る余裕、一緒に笑う余裕、ただ「今日を過ごす」余裕。そうしたものが、少しずつ削られていっていました。あの年のこどもの日は、私にとって「頑張りすぎると、大切なものが見えにくくなる」ということを教えてくれた一日でもありました。

なぜこんなに頑張ってしまったのか

周りと比べてしまった気持ち

今思えば、いちばん大きかったのは「比べてしまった気持ち」だったと思います。
SNSを開くと、こどもの日の投稿が次々と流れてきます。色とりどりの料理、整った食卓、笑顔の子ども、完璧に撮れた写真。

それを見た瞬間、「すごいな」と思うより先に、
「うちも、ちゃんとやらなきゃいけない気がする」
そんな感覚が、静かに心に入り込んできました。

誰かに言われたわけではありません。
責められたわけでも、比べられたわけでもない。
それでも、「ちゃんとした親でいたい」「手を抜いていると思われたくない」という気持ちが、無意識のうちに自分を追い立てていました。

本当は、家庭ごとに事情も余裕も違うし、比べる意味なんてありません。
それなのに、他の家庭の“一番きれいな瞬間”と、自分の現実を比べてしまっていたのだと思います。そのズレが、知らないうちにプレッシャーになっていました。

「ちゃんとやらなきゃ」という思い込み

もうひとつ大きかったのが、「行事はちゃんとやらなきゃいけない」という思い込みです。
こどもの日は年に一度の大切な行事。だから、手を抜いたらいけない。省略したら後悔する。そんなふうに思っていました。

でも、冷静に考えてみると、誰かに評価される行事ではありません。
点数をつけられるわけでも、正解が決まっているわけでもない。
それなのに私は、「失敗したくない」「後悔したくない」という気持ちから、必要以上に力を入れていました。

今なら分かります。
一番厳しい評価者は、いつも自分自身だったということに。
「これくらいでいいかな」と思っても、「いや、まだ足りない」と自分で却下して、ハードルをどんどん上げていく。その結果、楽しむための行事が、頑張らなきゃいけない行事に変わってしまっていました。

頑張ってしまったのは、真面目だったからでも、愛情が深かったからでもあります。
でも同時に、「ちゃんとしなきゃ」に縛られすぎていたのも事実でした。
この気づきは、あとから振り返って、ようやく見えてきたものでした。

張り切りすぎた結果、しんどくなったこと

体力より気持ちが先に限界に

振り返ってみると、いちばん消耗していたのは体力よりも気持ちでした。
料理や飾り付けで体は動いていたけれど、それ以上に疲れていたのは頭の中だったと思います。

「失敗したくない」「ちゃんとやりたい」「後悔したくない」
そんな言葉が、ずっと頭の中をぐるぐる回っていました。段取りを確認して、次の行動を考えて、うまくいっているかを気にして。気が休まる瞬間がほとんどなかったのです。

少し手を抜けば楽になれたはずなのに、それができない。
「今日は特別な日だから」「ここで力を抜いたらダメ」という気持ちが、無意識にブレーキをかけていました。

結果として、夕方になるころには心の余裕がほとんど残っていませんでした。
体が疲れたというより、気を張り続けたことによる疲れが、一気に押し寄せてきた感覚です。行事を楽しむはずの一日が、「早く終わってほしい」と思ってしまうほど、気持ちがすり減っていました。

子どもの反応に振り回された

もうひとつ、しんどさを強くしたのが、子どもの反応でした。
「こんなに準備したんだから、きっと喜んでくれる」
どこかで、そんな期待を持っていたのだと思います。

でも、現実はそううまくいきません。
用意した料理よりもおもちゃに夢中になったり、写真を撮ろうとしたタイミングでぐずったり。「あれ?」と思う瞬間が何度もありました。

そのたびに、がっかりしたり、イラッとしたりしてしまう自分がいました。
本当は、子どもはいつも通り過ごしていただけなのに、私の中にあった「こうなってほしい」という期待が、反応とのズレを生んでいたのだと思います。

今ならはっきり言えます。
子どものための行事なのに、いつの間にか私の理想が前に出ていたのだと。
そのズレに気づけなかったから、子どもの一つ一つの反応に心が揺さぶられ、余計に疲れてしまっていました。

行事を大切に思う気持ちが、知らないうちに自分と子どもを苦しくしてしまうことがある。
この経験は、あとになってから、静かに私の中に残りました。

反省して気づいた大切な視点

行事は「成功」させるものじゃない

あの日を振り返って、いちばん大きな気づきは「行事に正解はない」ということでした。
私はどこかで、こどもの日を「成功させなきゃいけないもの」だと思い込んでいました。準備が整って、子どもが喜んで、写真も残せて、最後までトラブルなく終わる。それが“うまくいった行事”だと。

でも、終わったあとの自分の気持ちを思い返してみると、達成感よりも疲労感のほうが強く残っていました。
そのとき初めて、「これは本当に成功だったのかな」と立ち止まったのです。

行事はテストでもイベントでもありません。
誰かに評価されるものでも、点数をつけられるものでもない。
大事なのは、うまくできたかどうかより、その日、家の空気がどうだったかなのだと、ようやく腑に落ちました。

笑顔が多かったか、安心して過ごせたか、ピリピリしていなかったか。
そうした目に見えにくい部分こそが、行事の本質だったのだと思います。

子どもが覚えているのは雰囲気

後日、何気なく子どもに「こどもの日、どうだった?」と聞いてみたことがあります。
内心では、「あのケーキが美味しかった」とか、「兜がかっこよかった」とか、何か一つくらい覚えていてほしい気持ちもありました。

でも、返ってきた答えは意外なものでした。
覚えていたのは、料理の内容でも飾り付けでもありません。
「一緒に遊んだこと」
「笑ったこと」
「なんとなく楽しかったこと」

それを聞いたとき、肩の力がすっと抜けました。
あんなに準備に力を入れた部分は、子どもの記憶にはほとんど残っていなかったのです。

その瞬間、残るのは完璧さより安心感なのだと、はっきり分かりました。
親が余裕を持っていること、穏やかな声で話していること、そばにいること。子どもにとって大切なのは、そうした空気そのものだったのだと思います。

あの反省があったからこそ、今は行事に向き合うときの視点が少し変わりました。
「ちゃんとできるか」よりも、「どんな気持ちで過ごせそうか」。
その問いを大切にできるようになったことは、私にとって大きな変化でした。

次のこどもの日で変えたこと

やることを最初から減らす

翌年のこどもの日を迎える前、私は一つだけ決めていたことがありました。
それは、「頑張りすぎないことを、最初から決めておく」ということです。

前年は、「できることを全部やろう」としていましたが、この年は逆でした。
「これだけやれば十分」と、あらかじめ線を引いたのです。料理は一品だけ。市販のものを上手に使う。飾りは、出しやすくて片付けやすいものだけ。前日準備も、無理のない範囲で終わらせる。

やることを減らすと、不思議なほど気持ちが軽くなりました。
「まだこれが残っている」「あれもやらなきゃ」という焦りがなくなり、当日の朝も落ち着いて過ごせたのです。

その結果、こどもの日は「こなす一日」ではなく、「過ごす一日」に変わりました。
準備を減らしたことで、行事そのものを味わう余裕が生まれたのだと思います。

子どもの様子を基準にする

もう一つ、大きく変えたのが「判断の基準」でした。
前年までは、予定や理想を基準に動いていましたが、この年は子どもの様子を一番に考えることにしました。

朝、「今日は何したい?」と聞いてみる。
その答えを、その日の軸にする。外に出たいなら外へ、家で遊びたいなら無理に予定を詰め込まない。途中で気が変わっても、「まあいっか」と受け止める。

計画通りに進まないこともありましたが、不思議とイライラはしませんでした。
「予定が崩れた」のではなく、「子どもに合わせただけ」だと思えたからです。

その一日を通して感じたのは、親が少し柔らかくなるだけで、家の空気がずいぶん変わるということでした。
親の理想より、子どもの今を大切にするほうが、結果的に穏やかな行事になる。そう実感できたこどもの日でした。

この経験があったから、行事に対する構え方が、少しずつ変わっていったのだと思います。

張り切りすぎた自分を責めなくていい

今、改めてあの年のこどもの日を思い返すと、「やりすぎたな」という反省と同時に、「それでも一生懸命だったな」と思う自分もいます。段取りを考えて、準備をして、どうしたら喜んでくれるかを悩んでいたあの時間は、間違いなく本気でした。

張り切りすぎてしまったのは、こどもの日を軽く考えていたからではありません。
むしろ逆で、「ちゃんとした一日にしたい」「子どもにとって大切な思い出にしたい」と、真剣に向き合っていたからこそだと思います。

もし今、この記事を読んでいる人の中に、「やりすぎたかも」「疲れてしまった」と反省している人がいたら、どうか自分を強く責めないでください。その行動の根っこには、確かに愛情があります。

行事で疲れてしまう人は、決して手を抜けない人です。
「まあいいか」と割り切れず、つい全部背負ってしまう人。
だからこそ、あとから反省するほど、真面目で優しい人なのだと思います。

張り切りすぎたという事実は、失敗ではなく、次につながる経験です。
その経験があるから、「次はこうしてみよう」「少し力を抜いてみよう」と考えられるようになります。

あの年の私も、完璧ではありませんでした。でも、不器用なりに、子どもと向き合おうとしていました。その姿勢自体を、今は否定しなくていいと思っています。

反省は、責めるためにあるものではありません。
これからを少し楽にするために、そっと立ち止まる時間なのだと、今はそう感じています。

まとめ|こどもの日は「ほどほど」でいいと気づいた日

こどもの日で張り切りすぎた年の反省は、今振り返ると私にとってとても大きな学びでした。
あの経験がなければ、「行事は頑張るもの」「ちゃんとやらなきゃ意味がない」という考え方を、疑うこともなかったと思います。

実際にやりすぎて、疲れて、余裕をなくしてみて初めて、見えてきたことがありました。
それは、頑張りすぎなくても、完璧じゃなくても、家族の時間はちゃんと意味を持つということです。料理が少なくても、飾り付けが簡単でも、写真が一枚もなくても、その日を一緒に過ごしたという事実は残ります。

行事は、家庭を評価する場ではありません。
誰かと比べる必要も、正解を探す必要もない。その家庭が、そのとき無理なく過ごせる形こそが、一番の正解なのだと思います。

次のこどもの日を迎えるときは、ぜひ少しだけ立ち止まって考えてみてください。
「何をするか」よりも、「どんな気持ちで過ごしたいか」。
笑顔でいられそうか、余裕を持てそうか、子どもの様子をゆっくり見られそうか。

少し力を抜くだけで、行事はぐっと楽になります。
そして、不思議なことに、親が楽になると、子どもも安心して過ごせるようになります。

あなたの家庭にとっての、ちょうどいいこどもの日の形は、きっともう手の届くところにあります。
どうか「ほどほど」でいいと、自分に許可を出してあげてください。その選択は、決して間違いではありません。