初節句の写真、撮らなきゃいけなかったのかな。
後からそんなふうに考えて、少し胸がざわつくことはありませんか。

私自身、初節句の日に「ちゃんとした写真」を残しませんでした。忙しさや気持ちの余裕、家族の状況が重なって、気づけば行事は静かに過ぎていた。後悔がなかったと言えば嘘になります。でも、時間が経つにつれて、あの日の選択を少しずつ受け止められるようになりました。この記事では、初節句で写真を撮らなかった家庭の気持ちを、同じ親目線で正直に綴っていきます。今まさに悩んでいる方の、心が少し軽くなるきっかけになればうれしいです。

初節句で写真を撮らなかった理由

初節句の写真を撮らなかった理由は、「これ」と言い切れる一つの事情があったわけではありません。
振り返ってみると、体力・気持ち・環境といった小さな要因が少しずつ重なり合い、自然と「撮らない選択」になっていたように感じます。

当時の私は、「写真を撮らない」と決めたというより、そこまで気持ちも手も回らなかったという表現のほうが近いかもしれません。

余裕がなかった当時の正直な気持ち

その頃の私は、毎日の生活を回すだけで精一杯でした。
夜中に何度も起きる夜泣き、慣れない授乳リズム、体力が戻らないまま考え始める仕事復帰のこと。頭の中は常に「今日をどう乗り切るか」でいっぱいでした。

カメラを用意して、背景を整えて、笑顔を作って。
その一つひとつが、当時の私には少し重たく感じていたのが正直なところです。

「あとで撮ろう」「落ち着いたらにしよう」
そんなふうに自分に言い聞かせながら過ごしているうちに、気づけば初節句の日は静かに過ぎていました。
やらなかったというより、できなかったという感覚に近かったと思います。

「ちゃんと撮らなきゃ」というプレッシャー

初節句の写真について調べれば調べるほど、立派な衣装やきれいな飾り、スタジオでの撮影写真が目に入ってきました。
どれも素敵で、「いいな」と思う一方で、同時にハードルの高さも感じていました。

「中途半端にやるくらいなら、やらないほうがいいのかも」
そんな極端な考えに引っ張られてしまった部分も、今思えばあった気がします。

本当は、スマホで一枚撮るだけでも十分だったはずなのに、
「ちゃんとしなきゃ」という思い込みが、かえって行動を遠ざけてしまっていました。

完璧にできない自分を責めるくらいなら、いっそ何もしないほうが楽。
当時は無意識に、そんな心の守り方を選んでいたのかもしれません。

今振り返ると、その選択も、あの頃の自分なりに精一杯だったのだと感じています。

写真を撮らなかったあとに湧いてきた感情

初節句が終わった直後は、「終わったな」「無事に過ぎたな」という安堵のほうが大きく、強い後悔はありませんでした。
でも、少し時間が経ち、生活が落ち着いてきた頃から、気持ちはゆっくり変化していきました。

何か特別なきっかけがあったわけではありません。
日常の中でふと立ち止まる瞬間に、じわじわと心が揺れ始めた、そんな感覚でした。

SNSや周囲を見て感じたモヤモヤ

季節が進み、SNSで初節句の写真を見かけるようになると、「あ、うちは写真がないな」と、ふと頭をよぎる瞬間がありました。
華やかな衣装、きれいに飾られた雛人形や五月人形、家族そろって写る笑顔。

比べるつもりはなくても、自然と目に入ってきます。
そして、そのたびに、心の奥が少しだけざわつくのを感じました。

「羨ましい」というほど強い感情ではないけれど、
「うちは何も残していない」という事実だけが、静かに残る
その小さな引っかかりが、積み重なっていったように思います。

「やらなかった自分」を責めそうになったとき

「あのとき、たった一枚でも撮っていればよかったのかな」
そんな考えが浮かぶこともありました。

でも、考え始めるときりがありません。
別の選択をした未来を想像すれば、どこまでも後悔は膨らんでしまいます。

そんなとき、私が何度も思い出そうとしたのは、当時の自分の状態でした。
寝不足で、余裕がなく、毎日を回すことに必死だったあの頃。

その事実までなかったことにしてしまったら、
「ちゃんとできなかった自分」を二重に責めることになってしまう。
そう感じて、過去の自分を否定しないことを意識するようになりました。

写真を撮らなかったことよりも、
そのとき精一杯だった自分をどう扱うかのほうが、ずっと大切だったのだと思います。

写真がなくても残っているもの

写真がないからといって、何も残っていないわけではありませんでした。
むしろ、時間が経つにつれて、「写真がなかったからこそ、心に残っているもの」もあると感じるようになりました。

形に残るものだけが思い出ではない。
そう思えるようになったのは、日々の暮らしの中で、ふとした瞬間に記憶がよみがえる経験を重ねてきたからです。

記憶や日常の中の小さな思い出

初節句の日のことを、私は今でも断片的に覚えています。
部屋に差し込んでいたやわらかい光、子どもが不思議そうに周りを見ていた表情、特別でもないけれど少しだけ丁寧に用意したごはん。

写真のように切り取られた一瞬ではなく、
その前後の慌ただしさや、何気ない会話まで含めて、記憶として残っています。

完璧な演出はできなかったけれど、
あの日は確かに「わが家の時間」だったと、今では素直に思えます。

きれいに整えられた一枚の写真よりも、
思い出そうとしたときに自然と浮かんでくる情景があること自体が、私にとっては十分でした。

写真以外の形で残っている記録

改めて振り返ってみると、写真以外にも残っているものは意外とたくさんありました。
育児日記の走り書き、スマホに残っていた短い動画、祖父母と交わした何気ない会話。

「今日はこんな様子だったよ」と伝えた言葉の記憶も、
立派な記録の一つだったのだと思います。

形式はバラバラでも、
家族の歴史として確かに積み重なっているものがありました。

写真がなくても、思い出が薄れてしまうわけではありません。
残し方は一つじゃない。
そう気づいてから、初節句の写真がないことを、少しずつ穏やかに受け止められるようになりました。

初節句の写真は「必須」ではないと思えた理由

時間が経つにつれて、初節句の写真に対する考え方は少しずつ変わっていきました。
撮らなかったことを「失敗」と捉えるのではなく、「そのときのわが家に合った選択だったのかもしれない」と思えるようになったのは、気持ちに余裕が生まれてからです。

初節句という行事そのものを、改めて見つめ直したことも、大きなきっかけでした。

行事の意味は家庭ごとに違う

初節句は、子どもの健やかな成長を願う行事です。
でも、その願いをどう表現するかは、家庭ごとに違っていていいはずです。

写真を撮ること、飾りを整えること、家族で集まること。
どれも素敵ですが、それ自体が目的になってしまうと、行事の本来の意味から少し離れてしまうように感じました。

「ちゃんとできたか」よりも、
「そのとき、どんな気持ちで子どもと向き合っていたか」。

形は見えなくても、心の中で願っていたことは確かにあって、
それだけでも十分だったのではないかと、今では思えます。

「今の家庭」を大切にする選択

無理をして何かを残すことより、
そのときの生活や気持ちを守ることも、立派な判断です。

あの頃の私たちは、体力も気持ちも限られていて、
できることは決して多くありませんでした。
それでも、日々を乗り切り、子どもと向き合い続けていた。

「できなかったこと」より、「続けてきたこと」に目を向けられるようになったとき、
初節句の写真がなくても、わが家の選択は間違っていなかったと思えるようになりました。

今の家庭にとって無理のない形を選ぶこと。
それもまた、子どもを大切に思う気持ちの一つなのだと感じています。

これから初節句を迎える人へ伝えたいこと

もし今、初節句の写真をどうするか悩んでいるなら、ほんの少し立ち止まって考えてみてほしいです。
周りの情報や「こうするもの」という空気に引っ張られて、気持ちが追いつかなくなっていないでしょうか。

初節句は、一度きりの行事ではありますが、
その一日をどう過ごすか、どう関わるかは、家庭ごとに選んでいいものだと思います。

撮る・撮らないで迷っているなら

「撮らなきゃ、あとで後悔するかな」
そんな不安が浮かぶのは、とても自然なことです。
それだけ、わが子の節目を大切に思っている証でもあります。

でも、後悔しないかどうかより、今の自分が納得できるかどうかを、ぜひ大事にしてみてください。
無理をして残した写真より、気持ちに余裕がある状態で過ごした時間のほうが、後から振り返ったときに温かく思えることもあります。

「やるべきかどうか」ではなく、
「今の私たちにできるかどうか」。
その視点で考えてみると、少し気持ちが整理されるかもしれません。

小さな形で関わる選択もある

初節句の写真は、必ずしも立派なものである必要はありません。
スマホで一枚撮るだけでもいいし、短い動画を残すだけでも十分です。

何も記録を残さず、静かに一日を過ごす選択も、間違いではありません。
「何をしなかったか」より、「どんな気持ちでその日を迎えたか」のほうが、きっと大切です。

正解は一つではありません。
あなたの家庭にとって無理のない形が、そのまま「わが家の初節句」になります。

それでも気持ちが引っかかるときの向き合い方

時間が経っても、ふとした瞬間に気持ちが揺れることはあります。
何かのきっかけで思い出したり、別の行事を迎えたりしたときに、「あのとき…」と心が戻ってしまうこともあるでしょう。

そんな感情が湧いてくるのは、弱さではありません。
それだけ、子どもの節目を大切に思っている証だと、私は感じています。

後から気づく気持ちを否定しない

「あのときは、そこまで考えられなかった」
それは、とても自然なことです。

当時は当時で、精一杯だった。
今になって別の気持ちが生まれたのは、余裕ができたからこそだと思います。

過去の判断を、今の基準で裁かなくていい
そう自分に言い聞かせるようになってから、少しずつ心が落ち着いていきました。

後悔のように感じる気持ちも、
実は「大切に思っているからこそ生まれた感情」なのかもしれません。

今からできることに目を向ける

初節句の写真がなくても、これから先の行事や日常は続いていきます。
誕生日、季節のイベント、何気ない休日。
思い出を残せる機会は、これからいくらでもあります。

今の姿を残すことは、いつからでもできます。
写真でも、動画でも、日記でも構いません。

過去を埋め合わせるためではなく、今を大切にするために残す
そう考えるようになってから、気持ちが少し軽くなりました。

初節句の写真がなかったとしても、
これから積み重ねていく日々こそが、わが家の大切な記録になっていくのだと思います。

まとめ|初節句で写真を撮らなかった選択も、家庭の物語

初節句で写真を撮らなかったからといって、
愛情が足りなかったわけでも、子どもへの思いが弱かったわけでもありません。
それは、そのときの暮らし、そのときの心の余裕の中で選んだ、わが家なりの一つの形だったのだと思います。

振り返ると、「もっとできたかもしれない」と感じる瞬間はあります。
でも同時に、あの頃の自分は、あの頃なりに必死だったことも事実です。
その背景を無視して結果だけを責めてしまうと、気持ちはなかなか前に進めません。

もし今、過去の選択を思い出して心が揺れているなら、
「よくやっていたよ」と、当時の自分にそっと声をかけてあげてください。
できなかったことより、続けてきた日々のほうが、ずっと多いはずです。

初節句の写真がなくても、家族の物語はそこで終わりではありません。
これから先も、節目は何度も訪れますし、日常の中にもたくさんの瞬間があります。

これから残したい時間、これから大切にしたい気持ちに目を向けてみてください。
あなたの家庭なりの節目は、これからも何度でも作っていけます。