こどもの日が近づくと、SNSに並ぶ立派な写真や、きれいに飾られた家族の様子が目に入ってきます。そんな中で、「今年は写真を撮らなかった」「撮れなかった」と気づいたとき、少し胸がざわついたことはありませんか。私も同じでした。忙しさや気持ちの余裕、子どもの様子を理由に、あえて写真を撮らなかった年があります。

その判断は本当に間違いだったのか、後悔すべきことなのか。この記事では、私自身の体験をもとに、こどもの日の写真を撮らなかった判断について、気持ちの整理の仕方や、見えにくい大切なものを言葉にしていきます。

こどもの日の写真を撮らなかった理由

その年のこどもの日は、正直に言うと、特別なことをする余裕がありませんでした。仕事が立て込み、気づけば一日があっという間に過ぎていく日々。子どもも少し疲れ気味で、いつもより甘えん坊になっていました。
鯉のぼりを出して、季節を感じられただけで精一杯。「写真はいいか」と思ったのが、偽らざる本音です。

無理をしてまで思い出を形に残すより、穏やかに過ごせる一日を大切にしたいその気持ちが、写真を撮らないという選択につながりました。
今振り返っても、あの判断は「諦め」ではなく、その時のわが家にとって自然な優先順位だったと思います。

忙しさだけが理由ではなかった

「忙しかったから撮れなかった」と言ってしまえば、それまでです。でも実際には、もう少し複雑な気持ちがありました。
カメラを向けた瞬間、子どもの表情が少しだけ固くなる気がしたのです。笑ってはいるけれど、どこか「撮られている顔」になっているようで、「今日はこれでいいのかな」と迷いました。

そのとき浮かんだのが、「今日は自然なままで過ごしたい」という思いでした。
写真を残すことより、子どもがリラックスして過ごせているかどうか。その方が、私には大事に思えたのです。

写真を撮ること自体がプレッシャーになる日もある

行事の日は、「ちゃんとやらなきゃ」「思い出を残さなきゃ」という気持ちが、どうしても強くなります。
気づかないうちに、写真を撮ることが楽しみではなく、義務やチェック項目のように感じてしまう日もあります

「この角度でいいかな」「今撮っておいたほうがいいかな」
そんなことを考えているうちに、目の前の子どもの様子を、きちんと見られていない気がしました。

だからその日は、カメラを置いて、ただ一緒に過ごすことを選びました。完璧な記録はなくても、落ち着いた時間を共有できたことが、私にとっては十分な「こどもの日」だったのだと思います。

写真を撮らなかったあとに感じた気持ち

こどもの日が終わって数日後、ふと時間ができてスマホの写真フォルダを開きました。
連休中の写真や、普段の何気ない日常の写真はあるのに、こどもの日だけがぽっかり空いている。そのとき、「あ、何も残っていないな」と思ったのです。

その瞬間、ほんの少しだけ胸がざわつきました。
「やっぱり一枚くらい撮っておけばよかったかな」
そんな後悔に近い気持ちが浮かんだのも、正直なところです。

でも時間が経つにつれて、その気持ちは少しずつ変わっていきました。
後悔は、愛情が足りなかった証ではなく、振り返る余裕が生まれたからこそ出てきた感情だったのだと、あとから気づいたのです。

あのときは必死で、その日を回すだけで精一杯でした。だからこそ、落ち着いた今になって、「どうだったかな」と思い返せた。それは決して悪いことではなく、むしろ自然な心の動きだったのだと思います。

SNSと比べてしまった自分

写真フォルダを見たあと、何気なくSNSを開くと、そこには華やかなこどもの日の投稿が並んでいました。
きれいに撮られた子どもの写真、立派な飾り付け、家族そろって笑っている姿。

それを見た瞬間、「うちは何もしていないな」と感じてしまった自分がいました。
頭では分かっているんです。それが他人の一瞬を切り取ったものだということも、写っていない時間がたくさんあることも。

それでも、気持ちは簡単には追いつきません。
「ちゃんとやれていない気がする」
「記録として残せていないのは、もったいなかったかな」
そんな思いが、静かに湧いてきました。

でも少し時間を置いて考えてみると、比べていたのは行事の中身ではなく、「見える形」だけだったことに気づきました。
写真があるかどうかと、子どもが安心して過ごせたかどうかは、必ずしも同じではない。そう思えたとき、比べる気持ちは少し和らぎました。

子ども本人はどう感じていたか

数日後、ふと思い立って子どもに聞いてみました。
「こどもの日、どうだった?」
少しドキドキしながらの質問でした。

すると返ってきたのは、「おやつがおいしかった」という一言。
拍子抜けするほど、あっさりした答えでした。

その言葉を聞いた瞬間、肩の力がふっと抜けました。
写真があったかどうか、特別なことをしたかどうか。そんなことより、子どもにとっては「楽しかった」「おいしかった」という感覚が、ちゃんと残っていたのです。

その一言で、「ああ、それでよかったんだな」と思えました。
子どもが覚えているのは、完璧な記録ではなく、その日の空気や気持ち。そう気づいたことで、写真を撮らなかった選択に対する後悔は、少しずつ薄れていきました。

写真がなくても残っているもの

写真がなくても、その日の空気や会話は、思っていた以上に心に残っていました。
鯉のぼりを一緒に片付けながら「来年はどうする?」と話したこと。夕飯の支度をしながら、子どもが何気なく話してくれた出来事。食卓を囲んで、くだらないことで笑い合った時間。

振り返ってみると、こどもの日の思い出は、写真がなくてもちゃんと積み重なっていました。
思い出は必ずしも画像として保存しなくても、家族の中に静かに残っていくそう感じられるようになったことで、少し気持ちが楽になりました。

会話や感情は、あとからよみがえる

写真がなくても、「あのときさ」と何気なく話題に上る記憶があります。
「あの鯉のぼり、風が強かったよね」「おやつ、あっという間になくなったね」
そんな会話をするたびに、その日の情景が自然とよみがえってきました。

不思議なことに、写真がないからこそ、映像よりも感情のほうがはっきり残っている気がします。
楽しかった気持ち、少し疲れていた感覚、安心して過ごしていた空気。そうしたものが、言葉や表情と一緒に思い出されるのです。

写真がないからこそ、想像で補われる

「どんな顔をしていたかな」「あのとき、どんな声だったかな」
写真がない分、記憶の中で想像する時間が生まれました。

それは決して不完全な思い出ではなく、むしろその時々の気持ちが重なり合う、やさしい記憶の形だと感じています。
思い出を思い返す時間そのものが、すでに大切な記録になっている。そう思えるようになったことで、写真がないことを残念に感じる気持ちは、少しずつ薄れていきました。

今では、写真があるかどうかよりも、「どんな気持ちで過ごしたか」を覚えていられることのほうが、大切なのかもしれないと思っています。

「ちゃんとやらなきゃ」に縛られていたこと

振り返ってみると、私自身が「こどもの日はこうあるべき」という見えない型に、思っていた以上に縛られていた気がします。
写真を撮って、飾り付けをして、何か特別なことをして。その一つでも欠けると、「ちゃんとやれていない」ような気がしていました。

本当は、誰かに言われたわけでも、明確なルールがあるわけでもありません。それでも、周りの雰囲気や情報に触れるうちに、「全部そろってこそ行事」という考えが、知らないうちに自分の中に根付いていたのだと思います。

でも、写真を撮らなかったこどもの日をきっかけに、ふと立ち止まりました。
家庭ごとに大切にしたい形は違っていい。その当たり前のことに気づけたことで、「ちゃんとやらなきゃ」という気持ちは、少しずつほどけていきました。

行事の主役は誰かを考える

「この行事は、誰のためのものだろう」
そう考えたとき、答えはとてもシンプルでした。

親が納得できるかどうか、周りからどう見られるかではなく、子どもが安心して、穏やかに過ごせたかどうか。それを基準にすると、自然と判断が変わってきます。

写真がなくても、特別なイベントがなくても、その日を「楽しかった」と感じてくれているなら、それで十分なのではないか。そう思えるようになってから、行事への向き合い方が少し楽になりました。

「やらなかった」ではなく「選ばなかった」

写真を撮らなかったことを、「やらなかった」と表現すると、どこか後ろめたさが残ります。
でも実際には、何も考えずに流してしまったわけではありませんでした。

忙しさ、子どもの様子、その日の空気。いろいろなことを考えたうえで、「今日は写真を撮らない」という選択をした。それだけのことだったのです。

今なら、はっきり言えます。
何かをしなかった日は、何も考えていなかった日ではありませんそのときの家族にとって、いちばん無理のない形を選んだ日だったのだと思います。

「ちゃんとやる」ことより、「ちゃんと考える」こと。
そう意識できるようになってから、行事に対する気持ちは、以前よりずっと軽くなりました。

これからのこどもの日との向き合い方

次のこどもの日も、写真を撮るかどうかは正直分かりません。でも、以前のように「撮らなきゃ」と気持ちが追い立てられることは、もうなくなりました。
撮りたいと思えたら撮る。そうでなければ、その日の空気や会話を心に残す。それで十分だと、今は自然に思えます。

行事は、毎年同じ形で繰り返す必要はありません。家族の状況も、子どもの成長も、親の余裕も、年ごとに変わっていくからです。
その年のわが家に合った過ごし方を選ぶことが、いちばん大切な行事の形なのだと感じています。

写真を撮る年、撮らない年があっていい

子どもが小さいうちは、写真を撮られることをあまり気にしなかったのに、成長するにつれて「恥ずかしい」「今はやめて」と言うようになることもあります。反対に、自分から「撮って」と言ってくる年もあるかもしれません。

その変化に合わせて、写真との距離感も変わっていい。
毎年同じ判断をしなければいけない理由は、どこにもありません。写真をたくさん残す年があってもいいし、ほとんど残さない年があってもいい。その揺らぎごと、家族の歴史なのだと思います。

大切なのは「どう過ごしたか」

写真があるかどうかより、その一日をどんな気持ちで過ごしたか。
子どもが安心して笑っていたか、親が無理をしていなかったか。そうした感覚の積み重ねが、家族の土台になっていく気がします。

「ちゃんと残せたか」ではなく、「ちゃんと向き合えたか」。
その視点を大切にできるようになってから、行事は少し優しいものになりました

これからのこどもの日も、完璧を目指さなくていい。そのときどきのわが家に合った形を選びながら、無理のない距離で、行事と付き合っていけたらいいなと思っています。

まとめ|こどもの日の写真を撮らなかった判断は間違いじゃない

こどもの日の写真を撮らなかったことに、正解も不正解もありません。
その判断の背景には、忙しさや余裕のなさ、子どもの様子を見ながら悩んだ時間、そして「今日は穏やかに過ごしたい」という家族への思いが、きっとあったはずです。

写真が残っていないと、「ちゃんとできなかったのでは」と不安になることもあります。でもそれは、行事を大切に思っているからこそ生まれる気持ちです。
写真を撮らなかった=大切にしていなかった、ということでは決してありません

もし今、「撮らなかったこと」を少しでも気にしているなら、一度立ち止まって振り返ってみてください。
その日のわが家は、どんな空気だったでしょうか。
子どもは安心して過ごせていたでしょうか。
自分自身は、少しでも笑えていたでしょうか。

穏やかな一日だったなら、それだけで、そのこどもの日は十分意味のあるものだったと思います。行事は、記録を残すためだけのものではなく、家族が無理なく過ごすための節目でもあります。

これからの行事も、「こうしなきゃ」「周りはこうしているから」ではなく、「わが家はどうしたいか」を軸に選んでいけますように。
写真を撮る年も、撮らない年も、そのどちらもが、あなたの家庭らしい大切な思い出です。