七五三の季節が近づくと、SNSや街中で晴れ着姿の子どもたちを見かけるようになりますよね。
その一方で、「うちは七五三をやらない予定だけど、大丈夫かな」「非常識って思われないかな」と、なんとなく胸がザワつくこともあると思います。私自身も、同じように悩んだ一人です。

この記事では、七五三をやらない選択をしたわが家の体験を交えながら、「気にしすぎなくていい理由」と「後悔しにくい考え方」をお話しします。読んだあとに、少し肩の力が抜けたらうれしいです。

七五三をやらない家庭は実は珍しくない

表に出にくいだけで、選択肢のひとつ

七五三というと、「みんなが当たり前にやっている行事」というイメージを持ちやすいですよね。私も以前はそう思っていました。
でも実際に子育てをしてみると、そのイメージはかなり偏っていたことに気づきました。

というのも、七五三を「やらない」「簡略化する」家庭ほど、あまり声に出していないからです。SNSや写真館の広告で目にするのは、どうしても晴れ着姿や参拝の様子ばかり。結果として、「やっている家庭=普通」「やらない家庭=少数派」のように見えてしまいます。

けれど、実際に周りのママ友や知人と何気なく話してみると、
「うちは写真だけにしたよ」
「その年はバタバタしていて見送った」
「下の子のときはやらなかった」
そんな声が、思っている以上に出てきました。

七五三をやらないことは、決して特別な選択ではありません。
表に出にくいだけで、同じように迷い、考えたうえで「今回はやらない」と決めている家庭は、実はたくさんあります。

見えない事情はどの家庭にもある

七五三をやるかどうかは、単純な「やる・やらない」の問題ではありません。
その背景には、それぞれの家庭の事情があります。

たとえば、
・子どもが体調を崩しやすい時期だった
・仕事や育児で余裕がなく、準備が負担だった
・兄弟姉妹の世話との兼ね合いが難しかった
・経済的な負担を一度立ち止まって考えたかった

こうした事情は、外から見ただけでは分かりません。

それでも、「やらない」と聞くと、どこかで
「ちゃんと大切にしていないのでは?」
と感じてしまう人がいるのも事実です。けれど、「やらない=大切にしていない」ではありません。

「今のわが家には合わない」
「今はそのタイミングじゃない」
そう判断しただけのことです。

行事をどうするか悩み、考えている時点で、すでに子どものことを大切に思っている証拠だと、私は感じています。
そう考えると、「やらない選択」をした自分を、もう少しやさしく見てあげてもいいのかもしれません。

「非常識」と言われるのが怖い気持ちの正体

比較してしまうのは自然なこと

七五三をやらないと決めたあと、私が一番しんどかったのは、正直なところ「行事そのもの」ではありませんでした。
いちばん心に引っかかっていたのは、周りの視線や何気ない会話です。

「もう七五三終わった?」
「写真、どこで撮ったの?」

悪気のない一言だと分かっていても、そのたびに胸がきゅっと縮むような感覚がありました。
「あ、うちはやっていないんだよね」
そう答える前に、一瞬だけ迷ってしまう自分がいたんです。

でも、あとから落ち着いて考えてみると、その不安の正体は「周りからどう見られるか」よりも、自分自身が無意識に人と比べてしまっていたことでした。
SNSで流れてくる晴れ着姿、記念写真、家族そろっての参拝。
それらを目にするたびに、「うちは何もしていないかも」と感じてしまっていたのだと思います。

子育てをしていると、行事や成長の節目が多い分、どうしても比較の機会が増えます。
だからこそ、比べてしまうのは自然なこと。
「気にしないようにしよう」と無理に抑え込むより、「比べてしまう自分がいる」と気づいてあげるだけでも、気持ちは少し楽になります。

周囲の言葉より、自分の納得感

「非常識って思われたらどうしよう」
七五三をやらない選択をするとき、多くの人が一度はこう考えると思います。私もそうでした。

けれど実際に振り返ってみると、誰かから直接「それはおかしい」と言われたことは一度もありません。
むしろ、「そういう選択もあるよね」「うちも迷ったよ」と共感されることのほうが多かったです。

それでも不安が消えなかったのは、周囲の言葉よりも、自分の中でまだ完全に整理できていなかったからかもしれません。
「本当にこれでよかったのかな」
「あとで後悔しないかな」
そんな気持ちが残っていると、他人の一言が必要以上に刺さってしまいます。

だからこそ大切なのは、「この選択を、自分たちで納得できているかどうか」
理由がはっきりしていて、「今のわが家にはこれが合っている」と思えていれば、周囲の声は自然と小さくなっていきます。

子育てに正解がひとつでないように、七五三のあり方も家庭ごとに違っていい。
他人の基準よりも、自分たちの気持ちを優先していいのだと、私は今ならはっきり言えます。

わが家が七五三をやらなかった理由

体調・性格・タイミングの問題

わが家が七五三を見送った一番の理由は、その年の子どもの体調と生活リズムでした。
ちょうどその頃、季節の変わり目もあってか、熱を出したり咳が続いたりすることが多く、正直なところ「元気な日を探すだけでも精一杯」という状態だったんです。

七五三といえば、慣れない着物やスーツを着て、写真を撮って、神社に参拝して…。
大人でも疲れてしまう流れを、まだ小さな子どもにこなさせることを想像すると、どうしても「楽しい行事」というより「頑張らせるイベント」に感じてしまいました。

さらに、わが子は人混みや長時間の外出があまり得意ではないタイプ。
知らない場所で着替えをして、じっと立って写真を撮るだけでも、かなりの負担になるだろうなと感じていました。

無理をさせてまで行事を優先することが、本当に子どものためなのか。
そう考えたとき、私の中で少しずつ違和感が大きくなっていったのを覚えています。

「今じゃない」と判断しただけ

「やらない」と決めたとき、私たちは一度立ち止まって、七五三の意味そのものを話し合いました。
そのときに、夫と交わした会話が今でも印象に残っています。

「七五三って、誰のための行事だと思う?」
「子どもの健やかな成長を願うものだよね」

このやり取りをしたとき、ふっと気持ちが軽くなりました。
もし目的が「無事に育っていることを願うこと」なら、必ずしも決まった形に当てはめなくてもいいのではないか、と。

参拝や写真撮影をしなくても、
「ここまで大きくなってくれてありがとう」
「元気に育ってくれてうれしいね」
そんな言葉を日常の中で伝えることはできます。

だからわが家が選んだのは、「七五三を否定する」のではなく、「今は選ばない」という判断でした。
将来、別のタイミングでお祝いしたくなるかもしれないし、形を変えて何かするかもしれない。
でもその時点では、「今じゃない」という答えが、一番しっくりきたんです。

こうして振り返ってみると、七五三をやらなかった理由は、特別な事情があったからというよりも、
「今のわが家に無理のない選択をした」
ただそれだけだったのだと思います。

七五三をやらなくても大切なことは変わらない

成長を祝う方法はひとつじゃない

七五三をやらなくても、子どもの成長が止まるわけではありません。
当たり前ですが、日々の暮らしの中で、子どもはちゃんと前に進んでいます。

たとえば、
・誕生日をいつもより少し特別に過ごす
・家族で外食をして「ここまで大きくなったね」と話す
・何気ない日常を写真に残す

こうした一つひとつも、立派な「成長のお祝い」だと私は感じています。
七五三のような行事がなくても、親が子どもの成長に目を向け、言葉にして伝えることはできます。

行事の有無よりも、「見ているよ」「大きくなったね」と伝えることのほうが、ずっと大切
そう思えるようになってから、七五三をやらなかったことへの引っかかりは、少しずつ薄れていきました。

子どもは意外と覚えていない

正直なところ、七五三の当日のことを、子ども自身が細かく覚えているケースはあまり多くないように思います。
「着物が苦しかった」「写真が長かった」そんな断片的な記憶だけが残る、という話もよく聞きますよね。

それよりも、子どもの心に積み重なっていくのは、
・安心して過ごせた時間
・親に話を聞いてもらった記憶
・笑い合った日常の場面

こうした何気ない出来事ではないでしょうか。

七五三をやらなかったとしても、
「一緒にごはんを食べた時間」
「寝る前に話した会話」
「できるようになったことを喜んだ瞬間」
これらは確実に、子どもの中に残っていきます。

特別な一日より、安心できる毎日の積み重ねのほうが、子どもの心を育てる
そう考えると、「七五三をやらなかった=何かが欠けている」という感覚は、少し違うのかもしれません。

行事の形にとらわれすぎず、今ある日常を大切にする。
それもまた、立派な子育ての選択だと、私は思っています。

それでも気になるときの“折り合いのつけ方”

写真だけ、参拝だけも立派な選択

「七五三はやらない」と決めたはずなのに、ふとした瞬間に気持ちが引っかかる。
そんな感覚を覚える方は、きっと少なくないと思います。私自身も、「これでよかったのかな」と考えてしまう日がありました。

でも、そんなときに無理に白黒をつけなくても大丈夫です。
七五三は「全部やる」か「一切やらない」かの二択ではありません。

たとえば、
・写真だけ、家族の記録として残す
・混雑を避けて、別の時期に神社へ行く
・立派な行事はしないけれど、小さなお守りを買う

こうした形も、十分に意味のある選択だと思います。
すべてを揃えなくても、「子どもの成長を大切に思っている気持ち」は、ちゃんと形にできます。

「これくらいなら無理がない」
そう感じられる範囲で折り合いをつけることは、決して中途半端ではありません。

後悔しないために考えておきたいこと

七五三をやらない選択で後悔しにくくするために、大切だと感じているのは、「なぜやらないのか」を自分の中で整理しておくことです。

・体調や生活リズムを優先したかった
・今は余裕がなかった
・行事より日常を大切にしたかった

理由は、立派である必要はありません。
「なんとなく合わなかった」でもいいのです。

自分なりの理由を言葉にできていれば、あとから振り返ったときも「そのときの最善だった」と受け止めやすくなります。

時間が経ってから、「やっぱりやればよかったかな」と思うことがあっても、
「当時はこういう状況だったよね」
そう自分に説明できるだけで、気持ちはずいぶん違ってきます。

七五三は、一度きりの正解を求めるものではありません。
その時々の家庭の状態に合わせて、柔軟に考えていい行事なのだと、私は思っています。

周りにどう思われるかより、家庭の空気を大切に

行事で疲れ切ってしまわないために

七五三は、当日だけでなく、そこに至るまでの準備も意外と負担が大きい行事です。
衣装選び、予約、日程調整、当日の段取り。どれも一つひとつは小さなことでも、積み重なると気持ちに余裕がなくなってしまいます。

もしその過程で、
「早くして」
「汚さないで」
と親の声がきつくなってしまったら、その空気は自然と子どもにも伝わります。
せっかくのお祝いの日が、「楽しかった思い出」より「緊張した記憶」になってしまうのは、少しもったいないですよね。

だからこそ、私は「行事をこなすこと」よりも、家族みんなが無理なく笑顔でいられるかどうかを大切にしたいと思っています。
七五三をやらない選択も、その基準で考えれば、十分に意味のある判断だと感じています。

家庭ごとの「正解」があっていい

七五三をやる家庭も、やらない家庭も、出発点は同じです。
それは、「子どもの成長を大切に思っている」という気持ち。

やり方が違うだけで、愛情の量が違うわけではありません。
その前提を忘れなければ、他の家庭の選択に振り回されすぎることも、自分の選択を責めすぎることも、きっと減っていきます。

家庭ごとに、状況も価値観も違っていい。だから「正解」も一つではありません。
そのことを受け入れられるようになると、不思議と気持ちが楽になり、周りの選択もやさしく見られるようになります。

七五三は、家族の形を試される行事ではありません。
それぞれの家庭が、自分たちに合った形を選べばいい。
そう思えたとき、行事に対するプレッシャーは、きっと少し軽くなるはずです。

まとめ|七五三をやらない選択は、わが家らしさで決めていい

七五三をやらない選択は、決して非常識でも、間違いでもありません。
これまで見てきたように、そこには体調、生活リズム、気持ちの余裕、価値観など、家庭ごとの理由があります。

大切なのは、「周りがどうしているか」ではなく、
「今のわが家にとって、無理のない選択かどうか」「自分たちが納得できているか」という視点です。

行事をやる・やらないで、子どもへの愛情が測られることはありません。
晴れ着を着せなくても、神社に行かなくても、
「ここまで元気に育ってくれてありがとう」
その気持ちが日常の中で伝わっていれば、それで十分だと私は思います。

もし今、七五三をやるかどうかで迷っているなら、
一度立ち止まって、次の3つを静かに整理してみてください。

・今の家族の状況はどうか
・子どもはどんな様子か
・自分たちは何に一番引っかかっているのか

すぐに答えを出す必要はありません。
迷っている時間、考えている時間そのものが、すでに子どもの成長を大切に思っている証です。

七五三は「こうしなければならない行事」ではなく、
「わが家らしさを考えるきっかけ」のひとつ。
どうか、他人の基準ではなく、あなたの家庭のペースで決めてください。

その選択が、あとから振り返ったときに
「これでよかった」
と思えるものであることを、心から願っています。